本当は参拝した6月11日にこの記事をアップしたかったのですが、館山から長い移動の疲れもあり、今日になってしまいました が、自分の中で熟成させるための時間だったと感じています
朝5時の海、灯台が照らす道
新しい朝を新しい自分として迎えるため、私は早朝5時台の野島崎へと向かいました。 鳥のさえずりと共に、水平線から朝日が輝き出す。朝5時の海に一人立ち、光を浴びる……こんな経験、一体いつぶりか思い出せません。
12年前の私は、ただ安房神社の近くのペンションで朝を迎えていただけでした。
野島崎に立つ灯台を眺めていると、ふと思ったのです。 「誰かの心を、ほんの少しでも照らす灯火(ともしび)になれば」 ここが、私の言葉を紡ぎ出すスタート地点なのだと強く感じました。
「吉方位」という言葉に縋(すが)るしかなかった闇
思えば12年前、私は自分の人生を自分でコントロールすることができず、依存という深い闇の森にいました。 生きるために使い、自分を傷つけ、未来に絶望。その繰り返しでした。出口が見えない、光が見えたらまた、また使う。「どうしたら立ち直れるのか」助けを求めて生きていたのです。
その頃の私は、占いの先生に言われた「吉方位(きっぽうい)」という言葉に、文字通り藁をもつかむ思いで縋っていました 。「吉方位へ行けば、何かが変わる」。 そんな風に、自分以外の「外側の力」に依存することでしか、希望を見出すことができなかったのです。
安房神社(あわじんじゃ)を訪れたのも、自分から「感謝」を伝えに行こうと思ったからではありません。 ただ、占いの結果に従って「救われるかもしれない」と期待していただけでした。 だから当時の私には、境内の2つの鳥居も、豊かな池も、下の宮やご神木の存在すら目に入っていませんでした。
12年を経て、ようやく見えた景色
今回、再び鳥居をくぐった私は、12年前とは全く違う景色を見ていました。 強烈に覚えているのは、境内に落ちる木漏れ日の影や、お水取りの場所。そして、今の私だからこそ受け取れた「光のサイン」がありました。あくまで個人的な感覚です。
- 降り注ぐ光: 伊勢神宮の分家が祀られている場所で、曇り空の隙間からパッと光が差し込んできました。あの頃とは違う、今の私を真っ直ぐに見守ってくれているような光でした。
- 神の使いとの遭遇: 洞窟の前でご挨拶をした直後、突然蛇が現れました。神様が私の決意を聞き届けてくれたサインだと感じました
- 天に伸びる一本の木: お水取りの場所で見つけた、山に向かって真っ直ぐにそびえ立つ木。それは、これから「自立と共栄」の精神で生きていく私の、新しい「軸」を象徴しているように思えました。
ここから始まる12年の旅
人生には、必死すぎて何も見えない時期があります。 何かに依存しなければ立っていられないほど、心が疲弊してしまう時もあります。 でも、そこから一歩ずつ歩みを進めた先には、必ず違う景色が待っています。
「皆さんも、12年前の自分と比べて、まったく違う見え方がする場所はありませんか?」 あの頃は必死で気づけなかったけれど、今のあなただからこそ気づける「身近な光」……もしあれば、ぜひ教えてください。
いまは依存の闇を抜け、自らの足で歩き続けている。 けれど、依存症は治らない。あの闇の森に戻らないように。クリーンを続けて行く。

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